2021/5/31

RIP James Harman 1946-2021  ブルース

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James Harman
Long Beach Blues Festival, Sept. 7, 1998
(c)Photo by Masahiro Sumori.

南カリフォルニアを拠点に活躍したブルース・ハーピスト、シンガーのジェイムズ・ハーマンが亡くなりました。74歳でした。約半世紀に渡りウェストコーストのブルース・シーンを牽引してきたヴェテランであり、近年まで新譜も出し精力的に活動を続けていました。

実はまだ公式な発表はないのですが、5月25日にはリヴィング・ブルース誌が訃報を伝えており、またハーマン・バンドのギタリストを20年以上務めるネイサン・ジェイムズを始め、元ブラスターズのデイヴ・アルヴィン、ZZトップのビリー・ギボンズなどハーマンと親交が深い人たちが相次いで追悼のコメントを発表しており、それを否定する情報もないことから、亡くなったのは確実と判断しました。

但し、亡くなった際の状況については情報があまりありません。昨年よりステージ4の食道がんで闘病中だったことが明らかになっており、これが死因だったと見られますが、心臓発作を起こしたとの情報もあります。亡くなった日は5月23日と19日の情報があります。ネイサン・ジェイムズは自身のフェイスブックの書き込みで「亡くなったことを5月20日に知らされた。5月19日の午前11時頃穏やかに最期を迎えたと聞いた」と明らかにしています。彼のコメントからして亡くなった日は5月19日と考えるのが自然だろうと考えています。

日本のブルース・ファンには馴染みが薄い人なのかもしれません。生まれはアラバマ州アニストンで、1960年代にフロリダ州で活動をしていたところキャンドヒートのメンバーに出会い、1970年にLAへの移住を決断します。彼のバンドは、キッド・ラモス、フィル・アルヴィン、ハリウッド・ファッツなど多くの名手の登竜門となり、シーンで存在感は増して行きました。

1983年、エニグマ・レーベルよりジェイムズ・ハーマン・バンド名義としては初のアルバム「Thank You Baby」をリリース。その後、ブラックトップ、キャノンボール、エレクトロファイと言ったレーベルから作品を出し続けました。

僕は一度だけ、1998年のロングビーチ・ブルース・フェスティバルで彼のライヴを見ることができました。ステージの後、CDにサインをしてもらったのですが、僕が「日本にも是非きてください」と言うと彼が「俺は危険すぎるからな」と薄ら笑いを浮かべながら言ったのを覚えています。彼のアルバム「Those Dangerous Gentlemens」に引っ掛けたんだと思いますが、真意はよくわかりません。(笑)しかし、残念ながら彼が来日することはありませんでした。

スウィング感を持ちつつも、南部出身らしいゴツゴツした面も見せたジェイムズ・ハーマン・サウンド。彼のような強烈な個性は埋め合わせは効かないと思います。

RIP。

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2021/5/28

オリンピック反対は非論理的なのか?  

東京オリンピック開催を支持する人たちの意見でよく聞くのは、反対している人は感情的になっていて論理的思考が停止しているという主張です。

そうでしょうか?確かに、この期に及んでも何が何でも強行しようという関係者の態度、発言を見るとなかなか冷静ではいられません。でも、論理を無視しているのはむしろ現状を直視しない開催論者の方でしょう。開催予定日まで2ヶ月を切っても、コロナ変異株は広がり、緊急事態を宣言する地域も広がっている現状。確かにワクチンの接種は少しずつ進んできてはいますが、まだまだ行き渡るには程遠い。仮に7月までに行き渡ったとしても、それを以て感染が収束するわけではありません。

東京都では変異株は危険だからと三密どころか二密、一密も避けろ、酒の提供はならぬ、守らない店は過料を科すと脅す。東京の地元民にはそんな苦難を強いる一方で、10万人もの大会関係者をあらゆる国々から呼ぼうとしている。彼らは基本的に外を出歩くのはご法度なので、経済的波及効果は限定的。しかし当然それだけの人が来れば、新たな感染源を持ち込む危険性は充分にあります。PCR検査は完璧ではないのですから。行動制限を守らない人も出るでしょう。10万人もの人の行動を管理しきれるとは思えません。

関係者や開催論者たちは、論理的に安心安全な大会は可能と胸を張ります。でもね、前例がない事態ですから、そんなのは机上の空論なんですよ。現に「短期集中的に感染を抑え込む」として政府が臨んだ3回目の緊急事態宣言だって、充分な効果は上がっていません。もし感染爆発が起きてしまったら責任取れますか?原発を安全だと言って無責任に推進して来た人たちと同じ論理ですよ。

危険性をゼロにすることなんかできない、それはわかっていますが、今はオリンピックをやるには危険性が依然高すぎる、それは状況が何よりも明確に物語っているのではないですか?

百歩譲って「反対派は感情的になっている」との主張に同意したとしても、いまやその反対派は日本の人々の過半数です。地元民に歓迎されないオリンピックなんてやる意味がありますか?地元民の大多数から「是非やってほしい」と熱望されてこそこういう大イベントは成り立つのではないのですか?

人々に希望と勇気を与えるために必要?ちゃんちゃらおかしいです。
今やオリンピックは人々の不安と怒りの種となってしまっています。

希望と勇気を与えるのならば、すぐにオリンピックの中止を宣言して、コロナ収束のために資源を集中させてください。
東京都と日本政府がやるべきことはそこでしょう。
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2021/5/23

RIP Bob Koester 1932-2021  ブルース

シカゴのデルマーク・レコードの創設者、ボブ・ケスターが5月12日、亡くなったそうです。88歳でした。デルマークは1953年設立。60年以上の歴史があります。

彼はシカゴでジャズ・レコード・マートというレコード店も経営していましたが、そちらは2016年にレコード店の在庫を売却し閉店。デルマークについても2018年ジュリア・ミラーとエルビオ・バリラリに売却し、経営から退いていました。高齢になり、退く準備を少しずつ進めてきたということなのでしょう。

近年、ケスターは脳卒中に見舞われ、ホスピスケア下にあったそうです。

ジャズ・レコード・マートはもうありませんが、デルマークは、新経営陣の下で健在です。

1932年、カンサス州ウィチタに生まれたボブ・ケスターは、1953年、セントルイスでレコード・レーベルを設立。レーベルの事務所があった通りの名前を取ってデルマー・レコードと名付けました。当初はジャズのグループのレコーディングをしていましたが、ビッグ・ジョー・ウィリアムズらブルースも手がけるようになりました。

1958年にケスターはレーベルとともにシカゴに拠点を移します。この際にレーベル名を現在のデルマーク(Delmark)に変更。また、翌1959年にはセイモアズ・レコーズというレコード店を買収し、ジャズ・レコード・マートに店名を変更しました。

以後デルマークはスリーピー・ジョン・エスティス、ジュニア・ウェルズ、マジック・サム、ロバート・ロックウッド・ジュニアなどなど、ブルースの名盤を数多く世に送り出します。

アリゲーター・レコードの社長、ブルース・イグロアも1970年に同社を設立する前はデルマークで働いていました。彼がハウンド・ドッグ・テイラーを見出し、ケスターにデルマークからのリリースを打診して断られたことから、自分のレーベルを興すことになったのは有名な話です。テイラーはアリゲーターを成功に導く人気を博した訳ですから、結果としてケスターの判断は間違っていたとも言えるのでしょう。しかし、デルマークはその後もジミー・ジョンソン、デイヴ・スペクター、ルリー・ベルなど新しいアーティストの作品を送り出しながら、今日まで健在であり続けました。

デルマークは、現存するブルース系のインディ・レーベルとしては全米でも最も古いレーベルだろうと思います。チェスやスペシャルティなど、大手に買収されて、ブランドだけ残っているレーベルならばもっと古いものもありますが、一貫して独立的な立場で70年近くやってきたレーベルは他にないでしょう。デルマークについで長い歴史を誇るレーベルにアーフーリーがありますが、同社は1960年設立で、昨年60周年を迎えています。あちらは未だ創設者のクリス・ストラックウィッツが健在です。これもすごいことですね。

ボブ・ケスターさん、たくさんの名作をありがとうございました。デルマークが今後とも息長く続きますように。
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2021/5/19

Aaron Nevilleツアー引退を表明  ニューオーリンズ

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Aaron Neville
New Orleans Jazz & Heritage Festival 2016
Sunday, May 1, 2016
(c)Photo by Masahiro Sumori.


アーロン・ネヴィルがツアーからの引退を宣言しました。

もう彼の歌声を生で聴くことができないのかと考えると非常に残念ではありますが、もう今年1月で80歳となり、彼はツアーに明け暮れる人生を続けることはできないと判断したようです。思えば、2012年にネヴィル・ブラザーズが活動停止をしたのもアーロンの脱退が理由でした。彼はその際、ネヴィル・ブラザーズのステージをこなすことの厳しさを口にし、無理のないペースでのソロ活動に移行したのでした。同年(2012年)、彼はソロとしては初めて来日公演を行っていますが、それが恐らく最後の来日になるのでしょう。

2005年にニューオーリンズをハリケーン・カトリーナが襲った際は彼も被災し、ナッシュヴィルへ避難。その後、浸水でカビが発生したニューオーリンズの空気の汚染が言われるようになりました。これを心配したアーロンは、ニューオーリンズへ戻ろうとせず、ネヴィル・ブラザーズは以後2年間、春のジャズフェスへ出演しませんでした。喘息持ちである彼は、人一倍体調には気を使っていたのだろうと思います。

彼の引退の発表は5月6日朝、Facebookに手紙を公開する形でした。突然の発表ではありましたが、これまでのこういった経緯もあるので、正直驚きはなかったです。ネヴィル・ブラザーズの4人のうち、2018年にはチャールズ、2019年にはアートと歳上の2人が相次いで亡くなり、存命なのはアーロンと末っ子のシリルのみとなりました。寄る年波には勝てない、それは仕方のないことだと思います。

僕が最後にアーロンのステージを見たのは2016年、ニューオーリンズのジャズフェスでのことでした。前年に亡くなったアラン・トゥーサン追悼のセットで、トゥーサンが彼のために書いた” Hercules”を歌いました。あの時点で75歳。歳の割には非常に元気に見えたのですが、体調については本人しかわからないことも多いでしょう。無理はしないでもらいたいです。これからも新作は作るとのことですので、そちらは期待したいですね。

以下、5月6日にアーロンが公開した手紙を和訳してみました:
オリジナルはここで見ることができます。
https://www.facebook.com/photo?fbid=309833530514337&set=a.220895236074834

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親愛なる友人の皆様へ

私はミュージシャン、シンガー、そして一人の人間として素晴らしい、恵まれた道のりを歩んできました。私にとって、ツアーで飛び回る日々を終わらせるときが来ました。誰かが私をショーの会場から会場へと瞬間移動させる発明をしてくれる日を待ちわびていましたが、それは叶わないことでした。私は、人のために歌うことが大好きです。それは聴いてくれる人の得る喜びと同じく、もしくはそれ以上に、私に大きな喜びをもたらしてくれます。残念なことですが、旅することの厳しい現状と、ツアーを成り立たせるために必要なスケジュールは、私の望むものとは言えない状況となってしまいました。

現在の世界の情勢は、私に多くのことを気づかせてくれました。人生は短いので、私はこの地球上で自分に残された時間をこれまでのようには急き立てられずに過ごしたいと考えています。これを永遠のお別れとは考えないでください。神の恵みを受け、私はこれからも音楽を作り続けますし、将来的に特別なイベントやコンサートに出ることもあるかも知れません。

私のバンド、チームメンバー、マネージャー、そして共演してくれた才能豊かなアーティストたち、私の妻と家族に感謝しています。そして何よりもファンの皆さんにありがとうと言いたいです。あなたたちのサポートは計り知れないほど貴重であり、あなたたちとの思い出は数えきれず、大事に心に刻んでいます。

私がこれまでの歳月でレコーディングしてきた音楽がこれからも皆さんに楽しみを与え続けてくれることを祈っています。ビートが途切れることなく続いて行きますように…。

愛と深い感謝を込めて
アーロン


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引退発表後にアーロンはニューオーリンズのタイムズ・ピカユーン紙のインタビューを受けています。そこで彼は「歌い続けたいが、ツアーはしたくない」と語っています。よほどツアーがきつかったんですね。今後ニューオーリンズをテーマにしたアルバムを作る可能性についても言及しています。「アートがファッツ・ドミノの大ファンだったし、僕もティーンエイジャーの頃彼の曲はどれも好きだった。彼へのトリビュートなんていいかもね。わからないけど」。そういう話が出ること自体わくわくしますね。

Exclusive: Aaron Neville on retirement: 'Those tours take a toll on your body and mind'
BY KEITH SPERA | Staff writer May 12, 2021 - 8:30 am
https://www.nola.com/entertainment_life/music/article_85be07da-b2b7-11eb-8ef0-13abc7f6df02.html
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2021/5/10

RIP Lloyd Price 1933-2021  ニューオーリンズ

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Lloyd Price at New Orleans Jazz & Heritage Festival
Ray Ban Stage, Sat., May 4, 1996
Photo (c)Masahiro Sumori

ミスター・パーソナリティーの愛称でも知られるルイジアナ州出身のR&B/ロックンロール・シンガー、ロイド・プライスが5月3日、ニューヨーク州ニューロシェルのシェイファー長期療養センターで亡くなったそうです。死因は糖尿病の合併症とのことです。88歳でした。

1950年代から60年代にかけてスペシャルティ・レコードを始めABC-パラマウントなどからレコードをリリース。特にデビュー曲の”Lawdy Miss Clawdy”はエルヴィス・プレスリーやソロモン・バークなど数多くのアーティストにカバーされ、ロックンロールを代表する1曲として知られるようになりました。

1998年にはロックンロールの殿堂入りを果たしています。

一方、彼は複数のレコード・レーベル(ターンテーブル、KRC、ダブルL他)を立ち上げるなどビジネスマンとしての顔も持ち合わせており、レコード・レーベル以外にもナイトクラブや食品会社の経営にも携わっています。

プライスは1933年3月9日、ニューオーリンズ郊外のケナーで生まれました。ルイジアナへ行ったことのある人ならば、ケナーはニューオーリンズ国際空港がある街としてご存じかも知れません。ニューオーリンズからはメテリーを挟み、西に20キロほど行ったところにあります。

幼少期から学校でトランペットやピアノをプレイしたり、弟のレオとバンドを組むなどして音楽に慣れ親しんでいたロイドは19歳のとき、ファッツ・ドミノを見出したことでも知られるデイヴ・バーソロミューに見いだされました。彼がスペシャルティの社長アート・ループに紹介し、1952年4月、スペシャルティから”Lawady Miss Clawdy”でデビュー。バーソロミューのバンドとファッツ・ドミノが参加する形でレコーディングされたこの曲は、ビルボードR&Bチャートのトップを飾る大ヒットを記録しました。

Lawdy Miss Clawdy (1952)


1957年には自らのレーベルKRCからリリースした”Just Because”がABCレコードの目に留まり、以後ABC-パラマウントから”Stagger Lee”、そして愛称ともなった“Personality”などのヒットを生むこととなりました。

Personality (1959)


個人的にはモニュメント・レコードからリリースとなったジャズのスタンダード曲"If I Had My Life To Live Over”などいいなと思います。曲調もコーラスを入れたアレンジもスペシャルティ時代とは一線を画した雰囲気を感じますが、彼の歌声には、ゴスペル・フィーリングも感じさせます。

If I Had My Life To Live Over (1965)


1970年代以降は音楽活動はほぼ休止し、ナイジェリアに移住。1974年には、ボクシング・プロモーターのドン・キングらとザイール(現コンゴ民主共和国)でモハメッド・アリとジョージ・フォアマンの試合や、後に「ソウル・パワー」として映画化される音楽フェスティバルのプロモーションに関わっています。

1980年代に米国に戻ってきたものの、その後も長らく音楽活動から遠ざかっていたプライス。1993年にジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャード、ゲイリー”U.S.”ボンズとヨーロッパ・ツアーを行ったのを皮切りに、ニューオーリンズのジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルへの出演など、コンサート活動を行うようになりました。僕も1996年のジャズフェスで一度彼のステージを目撃しています。

前述のロックンロールの殿堂に加え、1994年にはリズムアンドブルース・ファウンデーションのロックンロール・パイオニア賞を受賞したのに加え、2010年にはルイジアナ州の音楽殿堂、2019年にはナショナル・リズムアンドブルース殿堂入りを果たしています。

2010年にはテレビ・ドラマの「トレメ」に出演、アラン・トゥーサンとの共演で"Stagger Lee"を披露。2015年には自叙伝「sumdumhonky」も出版しています。

新作は長らく出していなかったものの、2017年には84歳にして自身のレーベル、ダブルLから新作アルバム「This Is Rock And Roll」をリリース。曲によって妙にロック色が強かったり、やや違和感もある内容ではありましたが、ファッツ・ドミノをジャズ色でカバーするなど新鮮な面も見せ、健在ぶりを示しました。

Blueberry Hill (2017)


プライスの死去で、1950年代のニューオーリンズで活躍したR&Bのスターはいよいよ殆どいなくなってしまいました。あとはヒューイ・スミスくらいでしょうか。意外に知られていないのはスペシャルティ・レコードの元経営者、アート・ループが未だご存命(1917年生まれなので、今年誕生日を迎えれば104歳!)なことですが、今彼はどうしているのでしょうか。
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