2021/9/7

追悼Carol Fran 1933-2021  ブルース

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Carol Fran at New Orleans Jazz & Heritage Festival
April 26, 2008
Photo by Masahiro Sumori. All rights reserved.


ルイジアナ州出身のブルース・シンガー/ピアニストのキャロル・フランが9月1日、ルイジアナ州ラファイエットのオクスナー・ラファイエット・ジェネラル・メディカル・センターにて亡くなりました。87歳でした。公式には死因は明らかになっていませんが、新型コロナに感染していたとの情報があり、一部メディアは回復後に合併症を起こして亡くなったとしています。

1950年頃から60年以上という長きに渡って活動した人ですが、1990年代に夫でギタリストのクラレンス・ハラマン(ホリモン)とのデュオとしてアルバムをリリースしてその名前は広く知られるようになりました。デュオ名義でライヴ盤も含め4枚のアルバムをリリース。1998年にはパークタワー・ブルース・フェスティバル出演のため来日もしました。

キャロル・フランは1933年10月23日、ルイジアナ州ラファイエット生まれ。ゆるりとした味わいを持ったルイジアナのスワンプ・ブルースの歌い手として知られますが、ザディコやケイジャン的な色合いの楽曲や、ジャズ、ソウルなどもこなす存在でした。

出生時の名前はキャロル・アンソニーと言いましたが、1950年代にニューオーリンズで活動していた際に出会ったサクソフォン奏者、ボブ・フランソワと結婚し、その姓を縮めてフラン姓を名乗り始めました。当時は、リー・ドーシー、ジョー・テックス、レイ・チャールズといったスターたちとツアーに出るなどして活躍し、ニューオーリンズのシーンでその名を上げていきます。1957年にはエクセロ・レコードからシングル”Emmitt Lee”でレコード・デビュー。その後ギター・スリムとツアーに出るなど、活動を一層活発化させました。



エクセロからは計4枚のシングルをリリースしていますが、いずれもヒットとはなりませんでした。その後1960年代にかけてリリック、ボー・モンド、ポート、ルーレットといったレーベルからシングルを出しますが、1970年代に入ると彼女は演奏活動も限定的となり、新しいレコーディングも途絶えてしまいました。

1980年代に入り、旧知のクラレンス・ハラマンと再会し、1983年に結婚。居をテキサスに移し、デュオとして活動するようになりました。1992年にブラックトップ・レコードからデュオ名義の「Soul Sensation!」をリリース。これはキャロルにとっては初のフル・アルバムとなりました。このリリースを機に2人の名前は広く知られるようになり、海外ツアーも多くこなすようになりました。その流れの中で来日も実現したというわけです。



僕もその来日公演は見ましたが、セッションで鍛え上げた職人的なハラマンのギター、そしてふくよかな味わいで聴かせるキャロルの歌とピアノ、本当に至福の演奏で、来日が実現して本当によかったと思いました。

2000年にハラマンが他界し、キャロルは故郷ラファイエットに戻ります。その後はソロ・シンガーとして活動を続け、2001年にはギターにセルウィン・クーパーを迎え、「Fran-tastic」をリリース。2005年にはハリケーン・カトリーナで被災したニューオーリンズを救済するためのチャリティーCD「Our New Orleans」にも参加しています。

2007年には脳卒中に見舞われピアノは弾けなくなってしまいましたが、その後も歌手として活動は続行。僕はニューオーリンズで2008年に彼女のソロ・ステージを見ましたが、しっかりと立ち元気な歌声を聴かせていたのを覚えています。

2013年には米国の国立芸術基金(NEA)から人間国宝に相当するナショナル・ヘリテッジ・フェローシップを授与されます。米国のアーティストとしては最高の栄誉と言える称号です。

2015年の映画「I AM THE BLUES(アイ・アム・ザ・ブルース)」にも出演。ボビー・ラッシュ、ヘンリー・グレイらと和やかなセッションを繰り広げています。

僕は未聴ですが、2020年にはアナログ限定で久々の新作アルバム「All Of My Life: The Saint Agnes Sessions」(Jazz Foundation of America)をリリースしました。同年彼女のドキュメンタリー映画「Every Day Is Not The Same」も制作されています。

2018年以降は養護施設に入居していたといいますが、今年10月に予定されていたニューオーリンズのジャズフェスにも出演が決まっていました。コロナの再拡大によりフェスが中止になった際にはインタビューで残念だと答えていたくらいなので、ごく最近まで元気だったのだろうと思います。

ご高齢であったとは言え、突然の訃報に寂しい気持ちでいっぱいです。RIP。

【過去のキャロル・フラン関連書き込み】
映画「I AM THE BLUES」日本で公開 (2018/4/28)
https://black.ap.teacup.com/sumori/1780.html
キャロル・フランが米国の人間国宝に (2013/6/5)
https://black.ap.teacup.com/sumori/1423.html

2021/10/14追記:2020年リリース新録アナログ盤「All Of My Life: The Saint Agnes Sessions」はその後入手しました。既存のレパートリーのみで構成され、声はだいぶ老け込んだ印象もありますが、それがかえって彼女の年輪を感じさせる、深みのある作品です。現在のところ、リリース元のウェブサイトにも掲載されておらず、オンラインで購入できるのは下記2か所のみのようです。

Louisiana Music Factory
https://www.louisianamusicfactory.com/product/carol-fran-all-of-my-life-the-saint-agnes-sessions-vinyl-lp/

Coulee Productions
https://www.couleeproductions.com/product-page/carol-fran-all-of-my-life-the-saint-agnes-sessions

ドキュメンタリー映画「Every Day Is Not The Same」は40分あまりの短めなものですが、本人や周囲の人のインタビュー映像が多く登場し、興味深いエピソードを語っています。こちらも上記2か所から購入ができます。リリース元のCoulee Productionsではダウンロード販売もあります。
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2021/8/31

追悼Roy Gaines 1937-2021  ブルース

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Roy Gaines
Long Beach Blues Festival, September 1, 2002
(c)Photo by Masahiro Sumori. All rights reserved.

ブルース・ギタリスト/シンガーのロイ・ゲインズが8月11日に亡くなりました。83歳でした。彼の娘でブルース・シンガーのキャロリンがSNS上で明らかにしました。翌日8月12日は84歳の誕生日でした。死因など詳細は明らかになっていません。

ゲインズは、Tボーン・ウォーカー直系のスウィング・サウンドを得意とするギタリストとして知られていますが、1981年の作「Gainelining」ではクルセイダーズのメンバーと共演し、フュージョン色のサウンドも聴かせるなど、懐の深い深いプレイヤーでもありました。リトル・リチャードとの共演で知られるサックス奏者の兄グレイディは、今年1月に亡くなっています。

1937年にテキサス州ワスコムで生まれ、ヒューストンで幼少期を過ごしたロイは、10代の頃からTボーン・ウォーカーやジョニー・コープランドらと共演し頭角を現しました。1950年代にロサンゼルスに移住してからは、セッション・ギタリストとしてボビー・ブランド、ビッグ・ママ・ソーントン、ビリー・ホリディなどブルースやジャズの大物と数多く共演を重ねました。

主に脇役だった彼がソロ・アーティストとしてデビューしたのは前述のアルバム「Gainelining」。1985年には映画「カラー・パープル」のサウンドトラックにミュージシャンおよびソングライターとして関わっています。

1988年にはグレイディ・ゲインズのアルバム「Fulll Gain」にゲスト参加し、兄弟共演を果たしました。

1999年にはパークタワー・ブルース・フェスティバル出演のために初来日。最終公演の日の夜、吾妻光良氏ら日本のミュージシャンとスタジオ入りし、レコーディングを敢行。「Guitar Clashers From Gainesville, Tokyo」としてリリースをしました。

近年は新譜のリリースなど、活動の状況もあまり聞こえてこなかったのでどうしているのかなとは思っておりましたが、なんとも残念です。

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Roy Gaines & Mitsuyoshi Azuma
Guitar Clashers From Gainesville, Tokyo
(P-Vine Records, 2000)
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2021/7/17

取り消されたノミネーション  ブルース

今年3月の話ですが、2021年の米ブルース・ミュージック・アワードのケニー・ウェイン・シェパードのノミネーションの取り消しが発表されました。これは、過去に彼が南軍旗をあしらった車やギターを使用していたことを問題視した措置でした。ご承知の通り、南軍は南北戦争で敗退するまで奴隷制を推し進めたことで知られています。

アワードを主宰するブルース・ファウンデーションの人種差別ステートメントでは「あらゆる形式の人種差別的表現を明確に非難する」としており、ケニー・ウェインはこれに反する行為を行ったというのがその理由です。ファウンデーションの毅然たる姿勢を称賛する声も上がりましたが、僕は釈然としないものが残りました。本当にそれでいいのか、と。

もちろん、人種差別は許してはならないことです。差別的行為には声を上げていくことは絶対に必要だと思います。

しかし!です。今回のファウンデーションの対応にはいくつかの点で問題があると考えています。

まず、ケニー・ウェインが人種差別的意図があったのかという問題です。問題の車とギターは、1980年代の人気アクション・コメディ番組「The Dukes of Hazzard(邦題:爆発!デューク)」に登場する車を模したものでした。本人によると彼は番組の大ファンだったと言いますが、南軍旗が問題があると気づいてからは使っていないとのことです。ギターに関しては、自動車メーカーのドッジから贈呈されたものであり、そもそも一度もステージでは使用したことないそうです。

近年BLM運動などにより、南軍関連のモニュメントや旗が相次いで撤去されてきているのは事実ですが、これは本当に最近の話です。昔から問題視する声はありましたが、「爆発!デューク」が全米で人気番組だったことからも判る通り、そういう認識が一般的だったとは言えません。

ケニー・ウェインが黒人の音楽文化に敬意を持っていたことはこれまでの活動を見れば十分わかります。彼自身も今回の取り消しに対し、人種差別には反対であることを表明し、意図せず傷つけてしまった人たち対し謝罪もしています。

どう考えても彼に人種差別的意図があったとは思えません。「爆発!デューク」の車の問題を語らずして、ケニー・ウェインに非を押し付けるのは矛先が違うように思います。

また、もう一つの問題は、今年のノミネーション取り消しの理由に、昔の話を持ち出していることです。過去1年の彼の行動を問題としているのならば取り消しも理解できなくもありません。しかし、そうではないということは筋が通りません。彼の今後の態度に関わらず、永久追放しようということでしょうか。彼はそこまでの措置を受ける悪事を働いたのでしょうか?

僕には彼がスケープゴートにされているようにしか見えません。

さらに言えば、彼は過去2008年と2011年にブルース・ミュージック・アワードを受賞しています。彼の車やギターが制作されたのは2004年のことだそうですから、いずれもその後です。それには触れず今回ノミネーションを取り消すのはおかしくないでしょうか?

今回、ケニー・ウェインのノミネーション取り消しと同時に、ファウンデーションは、組織の役員だった彼の父親ケンの辞任も求めたそうです。この対応も腑に落ちません。なぜ、父親であるというだけで辞任なのでしょうか?彼は2020年12月に新しく役員になったばかりだったそうです。実際に顔を合わせての役員会はまだ一度も出たことがなかったとのことです。彼は「なぜ自分を辞めさせるのか全くわからない」とコメントしています。

僕は人種差別に反対する運動は基本的に全面的に支持しますが、これはちょっと違うんでないの?そう思うんです。

ケニー・ウェインは非常に人気があるので、ノミネーションが取り消されてもさほど影響はないのかも知れません。しかし、このように歪んだ考え方でアーティストが非難されることを看過できません。ブルースの世界では権威のあるブルース・ミュージック・アワードだけに、いっそう強くそう思います。

参考までに、ケニー・ウェインはブルース・ロック・アーティスト部門にノミネートされていましたが、結局この部門の今年の勝者はマイク・ジトでした。彼にはもちろん罪はありません。おめでとうございます。
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2021/7/13

マディ・ウォーターズ初期の未発表ライヴ音源リリース  ブルース

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Muddy Waters Live in Los Angeles 1954
(GNP Crescendo GNP9057)

凄いものが出てしまいました。マディ・ウォーターズの完全未発表のライヴ音源です。何が凄いかって、レコーディングされたのは1954年9月25日、これまでブルースのライヴ・アルバム先駆けと言われていたマディのニューポートでのライヴ盤(1960年)よりも6年も早いのです。時間は20分弱。短いですがフェスティバルでの演奏なので、恐らくこれで全部なのでしょう。

リリース元はGNPクレッシェンド。10インチのアナログ・レコードのみのリリースです。今のところ日本国内で売っているショップはなく、下記2つのサイトでのみ購入できます。(販売状況については末尾の追記参照ください)
http://store.gnpcrescendo.com/new/product_info.php?cPath=36&products_id=273
https://bluebeatmusic.com/product_info.php?products_id=23928

1960年代以降はマディもロック・ミュージシャンにもカバーされ、ヨーロッパにしばしば出かけるなど活動の幅を広げましたが、そういう時代よりもだいぶ前です。まだ30代と若く、ギラギラしています。

【収録曲】
Baby Please Don’t Go (スタジオ録音日:1953年5月4日)
Hoochie Coochie Man (スタジオ録音日:1954年1月7日)
I Just Want To Make Love To You (スタジオ録音日:1954年4月13日)
I’m Ready (スタジオ録音日:1954年9月1日)
-Interview-
Oh Yeah (スタジオ録音日:1954年4月13日)

代表曲を中心に上記5曲をやっていますが、これらの5曲のうち4曲はこの1954年にレコーディングされています。残る1曲”Baby Please Don’t Go”も前年の1953年レコーディング。つまり、僕らがブルースの古典として知っているこれらの楽曲が出来立てほやほやの新曲として演奏されているんですよ。それだけでもわくわくしませんか?特に”I’m Ready”に至っては、このライヴの僅か24日前にレコーディングされています。

メンバーは、スタジオ・レコーディングの面々が中心となっていますが、異なるのは、ハーモニカ。レコードではいずれもリトル・ウォルターですが、ここではジョージ・スミス(リトル・ジョージ)がプレイしているのです。彼は何度かマディのバンドを出入りしていますが、これは恐らくマディのバンドに最初に入った直後だったのではと思います。彼が参加したマディ名義のスタジオ・レコーディングは残っておらず、その意味でも貴重な音源です。

【メンバー】
Muddy Waters – vocal, guitar
Jimmy Rogers – guitar
Little George – harmonica
Otis Spann – piano
Elgin Evans – drums

場所はロサンゼルスのシュライン・オーディトリアム。アカデミー賞の授賞式にも使われた今も現役の歴史ある大ホールです。GNPクレッシェンド・レーベルの創設者であり、DJ/コンサート・プロモーターとしても活躍したジーン・ノーマンが主宰したイベント「The World Series of The Blues」のヘッドライナーの一人として出演したのがマディだったのです。

ノーマンの息子ニールによると、彼は自ら主宰したコンサートをしばしばプロ機材を使ってレコーディングしていたそうで、この音源もその一つでした。その後リリースされることはなく、ノーマンの自宅ガレージに保存されているのを1990年代になってニールが発見したのだそうです。

時代が時代だけにライヴ会場でのレコーディングというのはそう簡単ではなかったはずです。マディのヴォーカルとオーティス・スパンのピアノが前面にはっきりと聞こえ、他の楽器と客席の音は奥まっている感じで、音のバランス的にはよいとは言えません。恐らく、そんなに何本もマイクは使わなかったのでしょう。

しかし、音質は非常にクリアです。マディの気迫のヴォーカル、そして前のめりにガンガン弾きまくるスパンのピアノに完全にノックアウトされてしまいました。まさに彼らの全盛期のサウンド、それがライヴの熱気の中で展開されているのです。

ベーシストはいません。スタジオ盤ではイントロのベースが印象的な”I Just Want To Make Love To You”はジミー・ロジャーズがギターでそのパートを弾いているようです。スタジオ盤ではリトル・ウォルターのプレイがまったりと響き、曲の主導権を握っている感がありますが、ここではオーティス・スパンが存在感を示しています。特に彼とジョージ・スミスが煽りあうように盛り上げるソロ部は必聴です。

マディはスライド・ソロは弾いていませんが、”Baby Please Don’t Go”でメロディ・ラインをなぞったリードを弾いているのがマディでしょうか。その後ろでガッカガッガとリズムギターが響いていますので、そちらがジミー・ロジャーズかな。全体的にロジャーズは、スタジオ盤に忠実にプレイしている印象です。

“Interview”とあるのは実際にはインタビューというほどのものではなく、メンバー紹介です。ジーン・ノーマンがマディを紹介し、マディが各メンバーを紹介しています。

短い音源ではありますが、短いゆえに聴きだしたら止まらず、僕はもう無限ループで聴いてはまっています。マディもバンドも脂が乗っています。これが今リリースされること自体奇跡と言えるでしょう。せっかくの音源なので、願わくばもっと聴きやすいCDやダウンロードでも出てほしいです。聴かないと損ですよ、これ。

尚、この晩のイベントには他にギター・スリム、ジョニー・ギター・ワトソンも自分のバンドで出ているようです。そっちはレコーディングしなかったのかなぁ?聴いてみたいんですけど。晩年はボロボロだったと言われるスリムですが、1954年と言えば最大のヒット曲”Things That I Used to Do”をリリースした年。悪いはずがありません。

などと妄想も膨らむ新リリースでした。

マディと言えば、彼が長年住んでいたシカゴの家を今年になってシカゴ市が歴史的建造物に指定する方向で動き出したというニュースも入ってきました。以前からこの家をミュージアムにする計画があり、一時は頓挫しかかっていましたが、これが追い風になるのかもしれませんね。シカゴの新たな観光名所になったら素晴らしいですね。

[2021/10/14追記]
「日本国内で売っているショップはなく」と書きましたが、8月になってから名古屋のWalter's Jukeさんが販売を始めました。海外から購入するよりも若干お安く買えますし、待つ時間も短く済みそうです。何度か再入荷もしているようです。タワーレコードのオンラインショップでも販売されています。
このレコードについては、10/25発売のブルース&ソウル・レコーズ162号で大きく取り上げられています。内容について詳しく知りたい方はそちらもどうぞ。
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2021/5/31

RIP James Harman 1946-2021  ブルース

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James Harman
Long Beach Blues Festival, Sept. 7, 1998
(c)Photo by Masahiro Sumori.

南カリフォルニアを拠点に活躍したブルース・ハーピスト、シンガーのジェイムズ・ハーマンが亡くなりました。74歳でした。約半世紀に渡りウェストコーストのブルース・シーンを牽引してきたヴェテランであり、近年まで新譜も出し精力的に活動を続けていました。

実はまだ公式な発表はないのですが、5月25日にはリヴィング・ブルース誌が訃報を伝えており、またハーマン・バンドのギタリストを20年以上務めるネイサン・ジェイムズを始め、元ブラスターズのデイヴ・アルヴィン、ZZトップのビリー・ギボンズなどハーマンと親交が深い人たちが相次いで追悼のコメントを発表しており、それを否定する情報もないことから、亡くなったのは確実と判断しました。

但し、亡くなった際の状況については情報があまりありません。昨年よりステージ4の食道がんで闘病中だったことが明らかになっており、これが死因だったと見られますが、心臓発作を起こしたとの情報もあります。亡くなった日は5月23日と19日の情報があります。ネイサン・ジェイムズは自身のフェイスブックの書き込みで「亡くなったことを5月20日に知らされた。5月19日の午前11時頃穏やかに最期を迎えたと聞いた」と明らかにしています。彼のコメントからして亡くなった日は5月19日と考えるのが自然だろうと考えています。

日本のブルース・ファンには馴染みが薄い人なのかもしれません。生まれはアラバマ州アニストンで、1960年代にフロリダ州で活動をしていたところキャンドヒートのメンバーに出会い、1970年にLAへの移住を決断します。彼のバンドは、キッド・ラモス、フィル・アルヴィン、ハリウッド・ファッツなど多くの名手の登竜門となり、シーンで存在感は増して行きました。

1983年、エニグマ・レーベルよりジェイムズ・ハーマン・バンド名義としては初のアルバム「Thank You Baby」をリリース。その後、ブラックトップ、キャノンボール、エレクトロファイと言ったレーベルから作品を出し続けました。

僕は一度だけ、1998年のロングビーチ・ブルース・フェスティバルで彼のライヴを見ることができました。ステージの後、CDにサインをしてもらったのですが、僕が「日本にも是非きてください」と言うと彼が「俺は危険すぎるからな」と薄ら笑いを浮かべながら言ったのを覚えています。彼のアルバム「Those Dangerous Gentlemens」に引っ掛けたんだと思いますが、真意はよくわかりません。(笑)しかし、残念ながら彼が来日することはありませんでした。

スウィング感を持ちつつも、南部出身らしいゴツゴツした面も見せたジェイムズ・ハーマン・サウンド。彼のような強烈な個性は埋め合わせは効かないと思います。

RIP。

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