アール・キングってどんな人?

Born: February 7, 1934, New Orleans, Louisiana
Died: April 17, 2003, New Orleans, Louisiana




Earl King ニューオーリンズの音楽を象徴するアーティストは誰?と訊かれたら、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか?もちろん豊かな音楽文化を育んだ都市ですから、色々な素晴らしいアーティストがいますが、僕はその中で一人ということならば、迷うことなくアール・キングを選びます。

アールは、暖かみと味に溢れた歌とギターとキャラクターで多くのファンに愛されてきたアーティストです。ライヴではミスタッチも多く決してうまいプレイをする人ではないですが、ギターも歌も一発で彼と判る個性を持ち、また彼が残してきた作品はニューオーリンズのR&Bの中で大きな影響力となっていったのです。それは自身のレコーディングに留まらず、ソングライターとして、他のアーティストに曲を提供するという形でも花を咲かせました。また、彼の"Come On"は、ジミ・ヘンドリクス、スティーヴィー・レイ・ヴォーンによってカバーされ、ロック・ファンにも広く知られるようになったのです。

アール・キングは、本名アール・サイラス・ジョンソンIV世。1934年、ニューオーリンズで生まれました。10代の頃から同い年のヒューイ・スミスと活動を開始。1953年にはヒューイとともにサヴォイ・レーベルのレコーディングに臨み、デビューSPをリリースしました。このときはまだ本名のアール・ジョンソン名義。ちなみにヒューイもこのときのセッションでレコード・デビューを果たしています。 翌1954年には、ジョニー・ヴィンセントに誘われスペシャルティーに渡り、シングル4枚をリリースしました。芸名の「アール・キング」は、この頃アクシデントで誕生したものでした。レーベルでの初シングル"Mother's Love"をリリースする際、B.B.キングにあやかって、「キング・アール」名義となる予定でしたが、プレス工場の手違いで、その順番が入れ替わってしまい、「アール・キング」と印刷されて世に出回りました。以後、彼はこの名前を使っています。

1955年にはヴィンセントが新たに興したエイス・レーベルに移籍し、1960年までの間に、"Those Lonely, Lonely Nights"など、南部らしい緩さを持った名作を生みだしました。

1960年にエイスに見切りを付け、インペリアルと契約したアール。ここでは、デイヴ・バーソロミューのプロデュースの元、従来のサウンドとは一味違うタイトなR&Bの作品を残しました。その中には前述の"Come On"、またニューオーリンズのアーティストに広くカバーされている"Trick Bag"などもあります。彼にとってヒーローでもあったギター・スリムの"Things That I Used To Do"のカバーもあります。

順調に見えたアールの活動、しかし、1963年にインペリアルは倒産してしまいます。その後、モータウンにオーディションを受けに行ったり、エイミー、ホットライン、ワンドといったレーベルより散発的にシングルをリリースしたりしているものの、暫く彼はまとまった形のレコーディングは行わず、ソングライティング、プロデューサー業がメインになりました。アールが当時、他のアーティストに提供した曲の中には、プロフェッサー・ロングヘアの"Big Chief"、リー・ドーシーの"Do-Re-Mi"、ウィリー・ティーの"Teasin' You"などがあります。

1972年には、アレン・トゥーサン、ミーターズとアルバム「Street Parade」をレコーディングしました。このアルバムは、当初アトランティックが関心を示していたのですが、最終的に契約には至りませんでした。結果、アルバムはお蔵入り。当時は、タイトル・トラックがカンス・レーベルからシングルとしてリリースされただけでした。

70年代は、他には77年のソネット盤、76年のジャズフェス・ライブ盤への参加などがありますが作品は多くありません。しかし、70年代末にはギグの数も増えていったというアール。当時彼をバックアップしていたのは、ラプソダイザーズ。後にレイディエイターズとして活躍することになるバンドでした。

80年代に入ると、アールはブラックトップと契約。86年に、東海岸のブルース・バンド、ルームフル・オブ・ブルースと組んで「Glazed」をリリースしたのを始めとして3枚のアルバムをリリースしました。1986年には、ジョニー・アダムスと組んで初来日を果し、元気なステージで客席を大いに沸かせています。その後、1991年、2001年と再来日し、来日は計3回を数えました。

1993年の「Hard River To Cross」は、ジョージ・ポーターJr.等のサポートを得て、充実した内容になっていますが、その後10年間新作リリースはなく、結果的にこれがアールのラスト・アルバムとなってしまいました。ブラックトップは続くアルバムを計画していたものの、実際には殆どレコーディングは進まず、計画は頓挫してしまったようです。

2001年の日本公演は、直前のニュージーランド公演で倒れたというニュースが飛び込んで来るなど健康に不安を伴いながらも、無事来日。しかし、アールの体調の衰えは誰の目にも明らかで、本人にとっても辛いステージだったでしょう。しかし、そういう逆境の中で一所懸命に客席の声援に応えようとするアールの姿に、個人的には感動を覚えました。

糖尿病の悪化などで体調を崩していたアールは、2003年4月17日、ニューオーリンズのジャズフェス直前に帰らぬ人となってしまいました。ジャズフェス期間中の4月30日に行われた彼の葬儀は、多くの参列者で溢れました。その中には、アーロン・ネヴィル、ドクター・ジョン、レオ・ノセンテリなど、有名アーティストも多々いたそうです。

ニューオーリンズのoffBEAT誌は、2003年6月号を「The Legacy of Earl King」と題した追悼特集号にしています。やはり、彼の存在は地元では大きかったということですね。
(2003年7月4日記)

Offbeat Mag
アール特集のoffBEAT誌








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