FENTON ROBINSON




Fenton Chirashi 日本のファンから「メロー・ブルース・ジーニアス」というあだ名で親しまれていたフェントン・ロビンソン。ネチッこくグイングイン弾くギタリストが多いブルースの世界において、ジャジーでクールなギターのフェントンは唯一無二の存在と言っても過言ではない。彼のプレイはチョーキングのかわりにフィンガーボードの上を指を滑らすグリッサンドを多用していて、ジャズ・ギタリスト的だ。そのギターに、あの繊細な歌が入ると、本当に震える程感動させる。

スタンダードとなっている"Somebody Loan Me A Dime"、"Tennessee Woman"、"You Don't Know What Love Is"などのソングライターとして、フェントンのことを知っている人も多いかと思う。特に"Somebody..."はボズ・スキャッグスが取り上げたことで、ロック・ファンにも幅広く知られることになった。

1935年9月23日、ミシシッピー州ミンターシティ生まれ。16歳の頃メンフィスに移住する。Tボーン・ウォーカーとB.B.キングに影響を受け、ギターをはじめた。1956年にはロスコー・ゴードンのデュークでのレコーディングに参加。自己名義の初録音は翌1957年、ミーティア・レーベルからの"Tennessee Woman"。この曲の成功がデュークとの契約につながった。この頃、フェントンはラリー・デイヴィスと組んで活動していたが、彼らのことを知ったボビー・ブランドがデュークに推薦してくれて、契約が決まったのだという。

デュークでは、フェントンは"As The Years Go Passing By"、"You've Got To Pass This Way Again" 、"Mississippi Steamboat"などのヒットを残し、またラリー・デイヴィスの"Texas Flood"(スティーヴィー・レイ・ヴォーンのカヴァーでも有名ですね)にはギタリストとして参加している。

62年にはシカゴに拠点を移し、ジュニア・ウェルズ、オーティス・ラッシュ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンなどのアーティスト達と数多くのセッションを重ね、と同時に多数のインディー系のレーベルからシングルをリリースした。そんな中には、パロスに吹き込んだ"Somebody Loan Me A Dime"(67年リリース)もあった。この曲は69年、ボズ・スキャッグスがファースト・アルバムで取り上げるが、当初作曲クレジットがボズ本人になっていたので、ブルース・ファンから非難を浴びることになった。(但し、後の再発盤ではフェントン名義に訂正されている)彼のバージョンはデュエイン・オールマンがギターで参加したなかなかの名演で、このバージョンによってフェントンを知った人も多いだろうし、非難ばかりでなく、評価もしてあげてもいいのではと思うのだが。(因みに、この頃の彼のシングルの数々は、Pヴァインから出ている「ザ・メロウ・ブルース・ジニアス」という編集盤で聴くことが出来る。)1971年にはナッシュヴィルのセヴンティー7レコードから初のアルバム、"Monday Morning Boogie & Blues"をリリースする。だが、このアルバムは、フェントンは殆どギターを弾いてもおらず、かわりにミスマッチなファズ・ギターが入っていたりと、ミスプロデュースに酷評も多い。

そんなフェントンにとって汚名挽回となるアルバムが、アリゲーターから74年にリリースされた"Somebody Loan Me A Dime"だった。再演されたタイトル曲の繊細でダイナミックな魅力をはじめ、本当に素晴らしい出来で、このアルバムを悪く言うブルース・ファンには未だかつてめぐりあったことがないほどである。日本でもブルース・ブームと伴い彼に対する注目度は高まり、ザ・ブルース誌の読者投票では「来日してほしいブルースマン」の堂々第一位になった。

1977年には、アリゲーターからのセカンド、"I Hear Some Blues Downstairs"をリリース。前作よりファンキーかつロック寄りな仕上がりで、相変わらず好調さをアピールした。ダウンビート誌は、「プログレッシヴ・ブルースマンの第一人者としてのロビンソンの地位を不動のものとした」とこのアルバムを絶賛した。このアルバムについては、第一作に及ばないという声もあるが、個人的にはとても気に入っている。"Killing Floor"、"Just A Little Bit"、"I Wish For You"などでのバンドのファンキーさもカッコいいし、これらの曲でのギターも、クールさをキープしつつも勢いがある。"As The Years Go Passing By"の再演など、スローな曲での魅力もいっぱいだ。

1978年には、トムズ・キャビンの招聘による来日公演が企画された。がしかし、思いもかけぬ日本国による「入局不許可」のため中止となってしまった。これは、フェントンが69年に自動車事故を起こし相手を死亡させてしまい、刑に服していた過去が問題になったものであったが、何ともファン、フェントン双方にとって悲しい結果となってしまった。当時の彼は絶頂期でもあり、未だにこの来日中止を悔やむ声はよく耳にする。

しかし、この後彼のキャリアは下り坂になっていった感がある。1984年にはオランダのブラックマジックから久々のアルバム"Blues In Progress"(後にアリゲーターが"Nightflight"として再発)を発表するが、出来は悪くはなくもやや平凡な印象だった。それほど調子は悪そうではないのだが、それまでのようにゾクゾクッとする瞬間があまりない、それなりに演奏したという感じの仕上がりだった。

1989年には、プロモーターのM&Iカンパニーの努力も実り、遂に初来日を果たした。この公演に関しては「やはり10年前にみたかった」など、酷評も確かに聞かれたが、個人的には本当に感慨深いライブだった。初日を観に行ったが、最初にバックのバンドが演奏していた際、ふと楽屋の入り口に目をやると、客席の方を心配そうに窺うフェントンの姿があった。一番支持されていた日本での公演が一度中止になっていたこともあり、本人としても初来日には色々と想いもあったに違いない。

最初に出てきたときには、確かにフェントンの音は緊張気味なのかやや堅くぎこちなかったが、1曲演奏した後、客席から声援が起こると一機に調子は上向きになっていった。"My Girl"などちょっと珍しい曲も披露し、本人も満足した感じに見えた。声がかつてのようには出ていないのは確かに感じたが、ギターの腕はさほど落ちたとは思わなかった。

この年、再度ブラックマジックから新録"Special Road"をリリース。(こちらは、現在エヴィデンスで再発されている)名曲"7-11 Blues"などでは声の衰えが痛々しくはあるが、全体のサウンドは悪くない。ギターも健在だ。だが残念なことに、このアルバムが自己作のラストとなってしまった。

フェントンは、イリノイ州ロックフォードの病院で1997年11月25日、帰らぬ人となった。死因は、脳ガンによる合併症と発表されている。1996年に脳ガンが発見され、一度手術を受けているフェントンだが、翌年再び手術を受け、その後入院中だった。まだ、62歳という若さだった。類い稀なる才能に恵まれながら、最後まで本当に酬われることなくこの世を去ってしまったことは、本当に残念でならない。

彼の訃報に接し、プロデューサー/ライターのディック・シャーマン氏は、次のように述べている。「フェントンの長年の友人、またときとしてのプロデューサーとして言いたい。彼は素晴らしいシンガーだった。また、新しいことに挑戦することを決して恐れない進歩的なギタリストであったし、作曲者、編曲者としては思慮深く、また深みと尊厳を持った真の紳士だった。」

(11/29/97記)








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