ブルーズの旅で体験した「9月11日」
宮崎けい&ひさえ


大の旅行好きの宮崎さん夫妻から、旅行記を投稿いただいたので載せちゃいます。宮崎さん達は大好きなブルース、ソウルを求めて、年に数回アメリカ旅行に出掛けておられます。

昨年の9月、世界を震撼させたテロが起こったとき、夫妻はまさにアメリカを旅行中でした。そこで体験したものは...。

               

旅先で遭遇した「9月11日」


 その日はやや暑いものの、とてもおだやかな天気だった。前日に申し込んだルイジアナ・プランテーション・ツアーの小型バスが約束どおり朝7時45分にホテルまで迎えに来てくれた。ちょうどその時間(東部時間の朝8時45分)に「戦争」が始まっていたとは全く知らずに約10名のツアーが出発した。

 大農園ののどかな風景と南部の歴史に触れ、その余韻にひたりながら予定どおりニュー・オーリンズのダウンタウンに戻ってきたのはもう午後の2時を回っていた。遅い昼食を、ひさえ好みの中華風ファーストフードで楽しんだ後、昨日の買い物の際に税金還付用の書類が整わなかったレコード屋に再び足を運んだ。その店員は目的の書類を書きながら私たち旅行者に「いつここを発つの?空港は全部閉鎖されてるよ!」と興奮ぎみに説明し始めた。「ハイジャック・・・」「ニューヨークの世界貿易センターがふたつとも崩壊・・・」「ペンタゴンに墜落・・・」「別の場所でも墜落・・・」・・・。正直なところ、彼の説明を聞いても何が何だか訳がわからなかった。とりあえず店を出て、ひさえから「何が起きたの」と聞かれても、その店員から得た断片的なキーワードをつなげることしかできず、そして、それでは説明になっていないことを自分でも認めざるをえなかった。ちなみにこの店員が書類に記入した税額は誤っていたことが帰国日の空港の還付窓口で判明した。そんなにも興奮していたということだろうか。

 「全米空港閉鎖」の意味するものが十分には理解できていない私たちは、朝からの計画どおり、南部文化研究情報を求め、地元名門私立のテューレーン大学を訪れた。ニュー・オーリンズ名物の路面電車で行く道中は、ガーデン・ディストリクトと呼ばれる南部独特の味わい深い建物が並ぶ美しい住宅街だ。電車を降り、インターネットで得ていた情報に従い受付の部屋を訪れると、平日の昼間だというのに入り口には鍵がかかり、中には誰もいない。もう新学期は始まっているはずなのに・・・、と思いつつガラス窓の張り紙を見ると「本日一斉休講」と書いた紙が貼ってある。「上の階に行けば誰かいるかもしれないから聞いてみようよ」という、ひさえの声に促されて3階へ行くと、女性職員が一人で事務を執っていた。ひさえは例の調子でタッタッタッと急ぎ足でドアを開けながら「エクス・キューズ・ミー!」・・・もちろんその後は全て、けいの役目となる。その職員は突然の訪問客である私たちを大変丁寧に扱ってくれた。南部文化研究を含む大学全体の案内資料を手早くかき集めてくれ、大学ロゴ入りのキャップもおまけに付けてぶ厚い書類ケースに詰め込んでくれた。彼女はいつも事務中心の仕事なので、こうして来客の応対をする機会があまりなく、私たちの訪問がとても嬉しいとのこと。そのおかげで、私たちは目的を果たした上に心和むひとときを3人で過ごすことができた。私たちは丁重にお礼を言った後、念のために今日の一斉休講の理由を訪ねてみた。彼女の表情が、突然暗く深刻そうなものに変わったのを見たとき、私たちはその日起きている事件の重大性を初めて実感した。

 彼女に別れを告げてキャンパスを見学してみた。一斉休講とはいえ、その日の朝の突然の出来事であったせいか、多くの学生が行き交っていた。学生センターの前には献血車が2台並び、学生たちが順番を待っていた。この日起きた大事件のために、全米ですぐに献血運動が開始されていることについて私たちはその後のニュースで知った。学生センターのショップも急遽休業となっており、「われわれのコントロールできない事情により・・・」という貼り紙に、この日の緊迫した状況を実感した。

 私たちは重たい雰囲気に包まれながらホテルの部屋に戻った。テレビをつけると、どの局もきょうの大惨事を伝える特別体制となっていた。旅客機があたかも高層ビルに吸い込まれていくような信じがたいシーンに続く数々の悲惨な映像。そして画面が切り替わると燃え続けるペンタゴンが映し出される・・・。報道そのものが、何が起きているのかを必死に捜し求めているようだった。目を覆いたくなるような映像が続く中で、「全米空港閉鎖・・・」「ロサンゼルス空港では全員避難・・・」「犯人グループメンバー逮捕・・・」などの情報が次々にテロップに流し出される。それを目で追いながら、とりあえず航空会社へ電話してみたが一向につながらない。話中の間隙をぬってやっと回線がつながっても、受話器に流れるメロディーを1時間以上も聞き続けてようやく担当者と話をすることができるという状態だ。

 そして、何と帰国予定日である翌日のフライトは全てキャンセルされ、1週間後にならないとチケットが取れないと聞いて唖然とした。それでは話にならないと粘った結果、どうにかキャンセル待ちリストに載せてもらい、運が良ければ4日後には帰れるかもしれないが、とにかく毎日電話で確認を要するということとなった。一瞬、全ての絆から見放されたような不安にかられたが、もうこうなったら腰を落ち着けるしかないという妙な居直りを感じた。旅行会社を使わない全くの個人旅行の私たちにとって、この際頼れるのは自分たちふたりしかいない。翌日、地元の日本領事館に電話で情報を求めたが、「テレビのニュースと外務省のホームページを見てください」という有様だ。もう、こうなれば自分たちでやるしかない!私たちはモバイル端末を旅のツールとして持ち歩いていたが、航空会社等のウエブサイトのチェックに加え、国際電話のオペレーターもつながりにくい状況の中での東京との電子メールに大活躍した。東京からの励ましのメールが、身にしみて嬉しかった。

 私たちは帰国のために必要な一連の手続きや確認作業のためのチェックリストを作った。そして、はやる気持ちを抑えるために、「もういちど冷静に考えてみよう」という言葉を何回も口に出しながらそのリストに従って情報収集、航空会社やホテルとの交渉を続けた。この方法のおかげで、大混乱の中でも、結果として最も安全で早く帰国できたと痛感している。また、この体験が自分たちの危機管理の実績として、その後もいろいろな意味で役立っているように思う。

 本来の帰国日から起算して4日間の滞在延長となり、うち3泊をニュー・オーリンズで過ごすこととなった。私たちはブラック・ミュージックを求めてこれまで19回にわたり米国を訪れたが、そのいずれもが楽しく、それぞれが深い思い出に溢れているとともに、幸いにも不愉快な思いや身の危険を感じたことはほとんどと言って無かった。そして今回、まさに20回目の旅の帰国前日に、アメリカが、いや人類がいまだ経験したことのない恐ろしい出来事が勃発したことは、とてつもなく重たい偶然である。この事件の恐ろしさや悲惨さは筆舌に尽くしがたいが、私たちふたりにとって不幸中の幸いであったことは、足止めとなった場所が、今回で7回目の訪問となったニュー・オーリンズであったということである。この街はいつも、楽しい音楽、大好きな南部料理、豊富な観光ポイント等のアトラクション、そして親切なサザン・ホスピタリティー溢れる人々に満たされ、まさに私たちにとってはこの世で最も居心地の良い場所のひとつだからだ。ここを訪れると、いつも奔放な楽しさと開放感を全身で感じ、とても幸せな気分に浸れる。しかし、新聞やテレビの全てが燃え上がる炎と黒煙で埋め尽くされると、街全体が冷え、重苦しい空気に覆われていくのが旅行者の私たちにもひしひしと伝わってきた。行き交う車や家々には次々と星条旗が掲げられるが、ホテルをはじめその多くは半旗であった。また、事件後2日目、3日目と経つにつれ観光客の姿が次第に少なくなり、それとともにレストランの閉店時間も繰り上がっていった。

 事件の全貌が次第に明らかにされると、次には生存者の発見と被害規模の把握が必死で開始されたが、それは空しさを伴っているようにさえ見えた。しかし、テレビを見ている限り、アメリカ社会は悲しみや恐怖に打ちひしがれるのことを拒み、すぐに立ち上がり、力をあわせて再生に向けた努力に励んでいくように感じられた。社会・経済の機能回復が急がれ、ウォール・ストリートは翌週にならないと再開できなかったものの、シカゴの取引所は事件2日後の13日には黙祷とともに取引を再開した。この後、アメリカ社会は終わりの見えない「戦争」へと入っていくこととなるが、この事件直後の混乱した状況の中で必死に、しかもスピード感と連帯を伴って進められる復興への営み見ながら、この社会が持つ団結力と勇気の素晴らしさを強く感じた。ほとんど孤立状態であった私たちも、このパワーに大きく力づけられたからこそ、帰国への孤独な努力を続けることができたのだと感じている。まさに、「自分たちが造った社会」ゆえに、それを破壊されたことに対して皆で怒り、そしてその復興に向けて、すばやく団結力と行動力を発揮することができるのだろう。「神が創った国」との違いを大きく感じた。



事件直後のライブハウス


 突撃テロのあった当日の夜、アップタウンのライブハウスでは、私たちのお気に入りのリバース・ブラスバンドが出る予定となっていた。本来であれば翌日の帰国フライトに遅れないように早朝の起床を気にかけながら出かけるところだが、はからずも思う存分堪能できることとなった。とは言っても、まずは本当にやるのか不安だったのでホテルから電話で確認してからタクシーを飛ばした。

 店に着くと、そこは以前と全く変わらない雰囲気で賑わっていた。すでに演奏は始まっており、ファンキーで粘っこいビートが熱気を掻き立てていた。ほどなく休憩時間となったが、リーダー格のサックス吹きはもうかなりアルコールが入っているようで、客を捕まえては何やらベロベロにまくし立てていた。いくら東京でCDやテキストで英語を勉強しても、こんなのは聴き取れるわけがない。この人はいったい今日これから演奏ができるのだろうかと、心配になったほどだが、この酔っ払いもステージに上がってサックスを持つとしゃきっとするのはさすがだ。そして前のステージをさらに上回るパワーに、客は大喜びで踊り続ける。この店の造りは、細長い長方形のフロアの正面がステージになっており、ステージの照明も裸電球がぶら下がっているだけ、そして客席にはちょうど通勤電車の座席ほどの幅のベンチが壁際に設置されているほかは椅子もテーブルも一切置いていないという実にシンプルなもの。座って聴こうなどという発想がもともとなく、とにかくひたすら踊るのだ。

 このリバース・ブラスバンドは先輩格のダーティー・ダズン・ブラスバンドに次ぐ実力と人気を誇る売れっ子だ。エレキ楽器は一切無く、サックス、トロンボーン、トランペットがアドリブでからみながら、チューバがベースラインを出す。グルーブと即興の興奮がどんどん曲を盛り上げていき、聴いている方は、頭で考える前にまるで催眠術にでもかかったように体が動き出してしまう。そして、その音のうねりに身を任せていると、自分の体が溶けて、その音とともにその場の空気と一体になっていくような心地よさに変わっていく。すぐ目の前で楽しそうに踊っている若いブラックギャルたちと自分がまるで全く同じ仲間だと錯覚させるほどの格別な快感に酔いしれた。こうして、このライブハウスはこの日も一見いつもと変わらない賑わいを見せてはいたが、普段は深夜2時過ぎまで続く演奏も、1時を過ぎた頃にぴたっと終わりになった。

 また、ニュー・オーリンズ追加滞在中に、ザディコ・バンドのショーを見る機会に恵まれた。場所はボウリング場だ。ボウリング場で音楽のライブを楽しむなんて、日本では考えられないし、私たちの知る限りアメリカでも他では聞いたことがない。この「ロックンボウル」はオーナーのジョン・ブランチャー氏がボウリング場を買い取って、音楽も楽しめる場所として営業を始めたユニークな店だ。このジョンはかつて学校の先生や保険の代理店をやった経歴を持つだけあり、お客さんへの目配り、気配りを欠かさず、また、店の宣伝やグッズ販売にも力を入れるビジネスマンでもある。人柄もとても気さくで、なじみのお客と楽しそうにいっしょに踊る姿も珍しくない。建物の1階はカフェになっており、2階へ通じる階段を上がると、まずたくさんのボウリングレーンが目に入る。和気あいあいとボウリングを楽しんでいる人がいるかと思えば、その同じフロアにステージが設置されていてバンドが演奏している。

 この日はジノ・デラフォースというザディコ・アーティストが出演していた。ドラム、ベース、ギターまでは普通のバンドと同じだが、これにアコーディオンとウオッシュボードが加わるのが特徴だ。フランスから伝わるヨーロッパのダンス音楽に、ブラックミュージックの引きずるようなノリとサウンドが交わり、ウキウキと踊りだしてしまう不思議な魅力を持つ音楽だ。ルイジアナにはカナダからの移民も多く、アコーディオンとフィドル(ヴァイオリン)を中心とするケイジャン音楽があり、ザディコはこれと非常に似た面を持つが、より粘り気のある、R&Bに近いサウンドである。

 この日は演奏の合間に、マスターのジョンがステージに上がり、テロ事件で犠牲となった人たちに対する黙祷を全員に呼びかけ、私たちも参加した。そして、「私たちはテロに負けない」という彼のスピーチが終わると、またすぐにバンドの演奏が始まり、お客さんたちは男女ペアで飛び回るように楽しそうに踊りだした。実は私は日ごろ、ザデイコのビデオを見ながら、密かにこのダンスステップを練習していたのだが、生のサウンドに接したらとうとう我慢ができなくなり、嫌がるひさえを相手に踊りだしてしまった。それほどまでに楽しい音楽なのである。そして、踊っている人たちの腰に星条旗のバンダナがたくさんたなびいいているのが目に付いた。今、アメリカ社会はこれまで体験したことのない衝撃を受けているが、それでも、楽しむ時には目いっぱい楽しんじゃうこの人々の姿にを見て、とても頼もしいものを感じた。もしかしたら、この中にも空港の警備にあたる警察官や警備員がいるかもしれない。そして、もしそうだとしたら、是非今晩はこうしていっしょに楽しんで、そしてまたあした仕事に励んで欲しいと心から願った次第である。



帰国への努力


 いつ帰れるか保証がない、というのは本当に初めての体験であった。目を凝らして見続けるテレビの画面には連日、テロ事件の被害状況、捜査状況そして空港やその他空の便に関する情報が刻々とテロップで流し出される。それを見ていると、どうも太平洋便よりも米国内の便のほうが、混乱がより大きいようにも感じられた。こうなれば、シカゴ→東京のフライトさえ確保できれば、列車でもバスでも、とにかくシカゴまでたどり着きたい、と半ば本気で考えはじめた。しかし、バスの長旅はあまりに体力を消耗しそうで、グレイハウンドびいきのひさえもさすがに自信がなさそうであった。

 あとは、アムトラック(列車)をどうするかが残った選択肢だ。ホテルでじっとしているのもかえって落ち着かないので、夕食の後、タクシーで駅まで行ってみることにした。その駅は、私たちが7年前にサン・アントニオから初めての列車の旅で到着した思い出の場所でもあるが、その日は入り口で警察官に身分証明証を見せないと入れないほどの厳戒態勢であった。かろうじて持っていたパスポートのコピーを見せて中に入れてもらい、チケットカウンターの列に並んだ。こういう時なのでひとりひとりの手続きに時間がかかっている様子だった。ようやく私たちの番が来る、というその直前で予約のコンピュータがダウンしてしまった。列車のチケットも次々と売り切れになるほどの「特需」のためか、とうとうパンクしてしまったのであろう。やむをえず、判る範囲での情報を聞き出したところ、シカゴまでは毎日運行されていて、18時間を要し、ほぼ定刻どおりに到着するだろう、とのことであった。

 ホテルに戻ってふたりで相談の結果、こういう状況ではこの列車も本当に時間通りにシカゴに到着する保証がないこと、シカゴに朝到着して、その足で時間を気にしながら空港に駆け込むのきついこと等を考え、この案も諦めることにした。あとはなんとか飛行機を乗り継いで、しかも一刻も早く帰るための交渉と確認作業に徹するしかなかった。そして、航空会社への度々の電話でキャンセル待ちの確認をしたが、条件はどんどん悪くなる有様。ユナイテッドの長年の利用客であることを盾に、粘りに粘った交渉の末、「上司の判断に基づく特別のはからい」として、ニュー・オーリンズ〜シカゴ間のデルタ航空への振り替えと、4日遅れでの成田行きの便を手配してもらえることとなった。かくして一応の目処はついたものの、テレビの情報では、不審者の身柄拘束等の動きに伴い、一旦再開になった空港が再閉鎖される事態も一部で起きている中では、最後まで気を緩めることができなかった。さらに、ニュー・オーリンズを発つ前夜には、ホテルでの荷造りの真っ最中に部屋の照明の電球が切れるというおまけ付きであった。

 どうにかその予定どおりに帰国のための出発日を迎えることができた。ニュー・オーリンズ空港へ着いてみるとユナイテッド便はほとんどキャンセル状態。飛んでいる便の方がはるかに少ない。いつもは旅行中に1分でも自分一人きりになるのを拒否するひさえだが、この日は自発的にデルタのカウンターで順番待ちをし、その間に、けいがユナイテッドのカウンターに行って振替手続きを行うという画期的な連係プレーが実現した。実はこの方法、空港までのタクシーの運転手が混雑を予想してアドバイスしてくれたもの。ところがどっこい、ユナイテッドカウンターの方は「20%運行」というテレビ情報のためか、みごとな閑散ぶり。予想外の順調さでデルタ便への変更手続きが終わったので、次は税金還付手続である。ここもいつもなら長い列ができているはずだが、この日は係員も手持ち無沙汰の様子。「順調、順調・・・」と喜びながらほっと一息つきたくなり、カフェで軽い朝食を取った。ひさえ好みの卵メニューもあり、すっかり気持ちが和んだ。「やれやれ」というところで、余裕を持ってセキュリティチェックを受けて搭乗に向かうこととした。念のためもう一度発着情報のモニター画面を確認すると、何と私たちがチェックインを済ませた便は急遽キャンセルになっているではないか!わが目を疑いながら慌ててカウンターへ駆け寄ると、きわどくもその前の便が遅れていたためぎりぎりでそれに飛び乗ることができた。

 この日はさすがに空港のセキュリティ・チェックがこれまでになく厳しくなっていた。手荷物はもちろんのこと、スーツケースを開けて中身を全てチェックされた。バッテリー、万歩計、コンパスについては全て自分でフタも開けさせられ、胃腸薬等の飲み薬についても全て用途を確認された。まるで麻薬取引の容疑者か何かのような扱いだが、むしろこれだけチェックを受けた人しか飛行機に乗れないという事実が安心感につながった。私は30年近く愛用している腰痛予防のための瀬戸枕と紐をいつも旅行グッズとして携行している。ニュースによると、ハイジャックされた飛行機の墜落現場からは手を縛られた乗務員の遺体が発見されたとの情報があったので、この紐に関するチェックを相当覚悟していたが、なぜかこれは不問のまま無事パス。また、突撃テロに関連して航空会社の制服が盗まれるという事件があったためか、乗務員といえども例外なく同様に厳重な手荷物検査を受けていた。そして、機内のシートに着いて周囲を見ると、制服姿のスチュワーデス等の職員が何人も客席に座っていた。これは、ハイジャックが再発した場合に備えての対応なのだろうか?また、離陸までの間に機内から携帯電話をかけている乗客がたくさん目に付いたが、家族との緊急連絡テストをしていた人も多かったことだろう。

 かくして、ようやくシカゴまでの移動が実現したが、道中も順調とは言いがたかった。振替フライトはアトランタでの乗り継ぎとなったが、そこでの待ち時間においても発着情報の案内画面から目が話せなかった。私たちの乗り継ぎ便も、キャンセルこそなかったが、出発ゲートが再三にわたり変更となり、その度に小走りに空港内を移動するはめとなった。私たちばかりでなく、乗務員を含め、たくさんの人たちが慌てて空港内を走り回っているのが目に付いた。これもテロ防止のための撹乱作戦なのだろうか?

 シカゴに着くと、南部の蒸し暑い場所から来た私たちには随分と涼しく感じられた。成田便への乗り継ぎが同日にができないため、ここでまた1泊することとなった。ニュー・オーリンズのホテルから同じチェーンの部屋を取ってもらっていたので、違和感なく、くつろいで過ごすことができたのは幸いだった。私たちは残された時間を帰国のための最後の確認作業に費やした。ここでも航空会社へのフライト確認の電話を繰り返しながらテレビ画面のニューステロップでテロ事件に関するその後の推移を見守った。そして、翌日の搭乗手続きの際のカウンターでの確認手続きなどをもう一度ふたりでチェックしながら紙に書き留め、最後の準備を終えた。

 翌日のオヘア空港は人影が極端に少なく、空港内のショップも閉店しているところが随分目に付いた。そして、BGMは何と、軍隊用の勇ましいものだけが使われていた。まさに、「戦争なんだな・・・」と実感した。これまで楽しい米国旅行から東京へ戻る道のりは、「もっといたかったのに・・・」と嫌がる自分に「また次回があるじゃないか!」と、言い聞かせながら帰ってくるのが常であったが、今回に限っては、成田行きの便に乗れたときに、安堵感が込み上げてきた。

 これだけの大きな被害を受けても「アメリカ」という国はその後も世界中の全てから同情と理解を得られているわけではない。この国の歴史の中には人種差別、戦争が克明に記されており、これらの問題が何らかのかたちで今日にもなお引き継がれていることからして当然のことかも知れない。しかし、私たちが大好きな音楽、そして私たちを限りなく励ましてくれるブルーズ、ゴスペル、ジャズという素晴らしい音楽を産んだのもこの矛盾に満ちた「アメリカ」という社会なのである。忘れてはならないことは、アフリカという異国から奴隷として無理やり連れて来られた人々がこの「アメリカ」という社会で出したうめき声としての歌がなければ、これらの素晴らしい音楽は決して産まれなかった。その「アメリカ」が再び元気さを取り戻し、おおらかに私たちを迎えてくれるときが一日も早くきてくれるように、と願ってやまない。

(2002.4.14掲載)








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