ジョン・スウェンソン オフビート誌2009年10月号記事"Voice in the Wilderness"の和訳版 ◇◆オフビート誌を定期購読しよう!◆◇ タブ・ベノワとヴォイス・オヴ・ザ・ウェットランズ・オールスターズは、絶滅の危機に瀕しているルイジアナの湿地帯のために声を上げている。その声がワシントンの議員たちに届く日は来るのだろうか。 現地でのプレゼンテーション 「今ここに見えるのは、新たなアトランティス島です」ベノワは、滑走路の外の水平線上に広がる草地を指して言った。「その向こうには、人々が住んでいた地域がありますが、もうすでに存在しないのです。インディアンの墓地もありましたが、もうありません。僕は自分が暮らしてきたホウマの土地が、文字通り消えていくのを目の当たりにしてきました。僕がかつてキャンプしにいった場所ももうありません。かつて僕の祖母、祖父が住んでいた家も現在は海に沈んでしまいました。その家がどこにあったかを確認したければ、ボートに乗らねばなりません。それはまるで、人々がボートに乗ってかつてアトランティスがあった場所を見に行くようなものです。そのような事態が、現実として我々に襲いかかっているのです。」
両者の違いは何なのか?ミシシッピ川では、過去何十年にも渡って、デルタ地帯に供給されるべき沈泥の流れを堤防によって堰き止めてきたのだった。それは、船の航行上の都合からミシシッピ川の河口を狭くするという、陸軍工兵隊の決定によるものだった。製油会社は製油設備を運ぶために、湿地帯を縦断しメキシコ湾に通ずる水路を建設したが、この水路によって、湿地帯は海水に侵され、その沿岸の生命体が失われていったのだった。 「それはとても単純なことなのです」とベノワは言う。「僕自身アチャファラヤ川からそう遠くない場所に住んでいますが、アチャファラヤ川はしっかりと仕事をしているのです。アチャファラヤ川は猛烈な勢いで陸地を生み出しています。川はかつて製油会社が建設した水路を土で埋め、自然界で本来あるべき沼地を再生しています。しかしミシシッピ川はそれをしていない。なぜならメキシコ湾に注がれる河口に至るまで、完全に密閉されてしまっているからなのです。」 17年前までは、これら2つの生態系が同じ問題を抱えていたとベノワは指摘する。 「状況が変わったのは、1992年のハリケーン・アンドリューの後のことなのです。このとき、アチャファラヤ川の堤防は壊され、川が流れるようになりました」とベノワは語る。「その後、驚異的な変化が訪れたのです。その変化を皆さんも空中からご覧になったかと思います。この土地は茶色なのに、向こう側は再び緑色を取り戻しています。茶色の部分は死につつあるのです。これ以上の説明が必要でしょうか?陸地に生えている草が枯れると土地は海水に侵され、腐蝕していきます。保護してくれるものがなくなり、陸地は失われていくのです。陸地を再生することはいったん忘れてください。まずは土地の腐食を止めることが先決です。新鮮な水をこの土地に流れ込ませることができれば、少なくとも土地の腐食は止まります。母なる大地はそのような再生力を持っているからです。この土地ははるか昔に作られ、我々人間が手をつけるまでは、うまく機能していたのです。」 唯一の解決策は... 「ミシシッピ川の堰を開放し、かつての水の流れを取り戻さねばなりません。ここバイユー・ラフォーシュもそうなのですが、バイユーというものは支流なのです。バイユーはミシシッピ川から枝分かれした小さな川ですが、そこへ流れ込む水が堰き止められてしまっているのです。バイユー・ラフォーシュを、バイユー・テレボンを開放してほしいのです。これらのバイユーは、湿地帯へ川の水を運ぶ自然のパイプラインなのです。そして、湿地帯は生き延びるために、水の供給を必要としているのです。」 解決策を示すこと自体は難しいことではないものの、製油会社が湿地帯の復元に興味を示さないという厳然たる事実から切り離して考えることは難しい。そしてあらゆる政府機関もこれまでこの問題に耳を貸してこなかった、あるいは製油会社側に立って事態を悪化させてきたのである。
ヴォイス・オヴ・ザ・ウェットランズの立ち上げ 製油地帯で育ったベノワは、自らこの悲惨な現実に触れるまでは、この問題には無関心だったという。 「僕は小さいころから飛行機を操縦していたんです」と彼は言う。「初めて操縦管を握ったのは14歳のときで、17歳のときには操縦士免許を取りました。石油採掘装置に囲まれて育ったようなものです。父と一緒に飛行機に乗って石油採掘現場まで行ったり、水上機に乗って他の場所に出かけたりしたのは、楽しい思い出です。石油採掘現場で一番幸福な人は、現場から町まで帰る飛行機を操縦するパイロットだと気づいたのです。僕は、現場でそういう仕事がしたいと思うようになりました。音楽は第一希望ではなかったんですよ。なりたかったのはパイロットだったんです。当初はレイクビュー空港、ホウマ空港から飛行機を操縦して生計を立てていたんです。」 ベノワは初めて湿地帯の腐食を目の当たりにするようになったのは、彼がパイプラインのパトロール機を操縦していた時のことだった。 「空からの方が物事がよく見えるんです」と彼は言った。「だからこそ、僕らは人々を飛行機に乗せて現状を見てもらっているのです。海岸線を飛行して湾岸の沼地を走るパイプラインを見ていたとき、問題に気づいたんです。僅か数ヶ月で小さな島々が消えていくのをね。そして、その速度も上がって行ったんですよ。かつては数ヶ月かかって進行していた状況が、数週間の周期で進んでいたのです。しかし、この状況を人に話しても『僕らが生きている間には起こらないよ』なんて言うんですよ。事は我々の誰もが想像するよりずっと急速に進んでいたのです。そして、空からはそれが全部見えます。バイユーで釣りをしている人、石油採掘現場に飛行機で通っている人、そういう人に聞いてみれば判るでしょう。きっと僕と全く同じことを言うはずです。だからこそ、僕は人々に見てもらいたいのです。ルイジアナの海岸線の問題について何をしたらいいか、他人の意見を聞くのではなく、自分で見て考えてほしいのです。」 ベノワは、余暇に音楽をプレイし続けた。そしてある日飛行中に、音楽こそが彼が本当に求めていたことだったことに気付いたのである。 「音楽は僕自身のみならず、他人を助けることができるものだと気づいたんです。自分の足跡を残せる何かがしたい、この世界を自分が生まれた時よりも少しでもよい場所にしたい、僕はそう思っていました。そのために音楽が正しい選択肢だと思うようになったのです。当時は、まだこの湿地帯保護運動の中で音楽がどんな役割を果たすか見当がついていなかったのですが、時とともにそれも徐々に明確になっていたのです。」 ベノワは、スワンプへ行って曲を書き、彼を取り囲んでいるそのスワンプが死につつあるのを目にしたのだった。 「僕はVOWを設立する以前からこの問題については書いて来たんです。曲を書くために多くの時間をスワンプで過ごしました。僕が曲を書いている傍らでスワンプは次々に失われていたのです。僕はその場にいると、大地が僕に語りかけているように思えたのです。大変なことになっているぞ、ってね。」 ベノワは、湿地帯保護運動団体に加入することを決断した。 「そういった団体のいくつかの会合に出席しましたが、そこで気付いたのは彼らが、その活動で生計を立てているということでした。問題解決に対する彼らの動機は一体なんなのでしょうか?僕は、その地に住んでいます。しかし、これらの団体の人々は誰もそこに住んでいません。彼らは僕の家を直してくれると言いつつ、その家に自分は住んでいないのです。僕は隅に追いやられたような疎外感を感じ、自ら団体を立ち上げなければならないことに気付いたのです。」 そしてオールスターズのバンド活動へ 「彼のレコードのための曲を私とタブが共作したことから全てが始まりました」とネヴィルは語った。「我々は話しているうちに、色々な事柄で意見を共有していることに気付いたのです。そのうちの一つが湿地帯が失われて行くことによってニューオーリンズが危機にさらされているという認識でした。彼がVOW財団についての話を始めたとき、私は最初からとても興味を持ちました。」 ドクター・ジョンも、ベノワのもう一人の心強いVOWパートナーとなった。彼は、ベノワが団体を立ち上げる以前より海岸線の腐食の危険性について警告していた一人だったのだ。 「マック(訳者注:マック・レベナック=ドクター・ジョンのこと)のお父さんは、1940年には既にこの問題について語っていたのです」とベノワは説明する。「彼がグループに加わったのは、そのような背景があったからなのです。僕らは、ずっと以前から友人でしたが、僕がこの団体を結成する話を持ち出したとき、彼の目がキラリと輝いたのを見ました。」 VOWオールスターズについて注目に値するのは、彼らがバンドとして素晴らしい演奏を聴かせていることだ。この手のスーパーグループは、本当のバンドのように聴こえることは稀である。彼らのように善意の運動のために集まったバンドはなおさらだ。しかし湿地帯保護の運動は粋なハリウッド的なスタンスでもなければ、イデオロギー主体の改革運動でもない。今日のNO NUKESキャンペーンのように不安定なものに見られる可能性もないのだ。ルイジアナ州の海岸線が消えて行くと言う問題は、人種、階級、宗教、政治的立場に関わらず誰にでも影響を及ぼすことである。仮に防御壁となる島々やスワンプが消えていたら、ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズに与えた影響は実際より遥かにひどかっただろう。 このグループが初めて一緒にプレイしたのは2005年1月。VOWのアルバムを制作するために、ニューオーリンズのパイティ・ストリート・スタジオに集まったときだった。ベノワとシリル・ネヴィルは一緒に作品を作ったことがあったものの、他のメンバーはぶっつけ本番の状態で臨んでいた。 「たくさんのミュージシャンが集まり、それぞれがアイデアを出し合っていました」とネヴィルは言った。「皆お互いを尊敬しあっていました。本当にすばらしい経験でした。楽しかったし、皆率直に意見を言い合ったのです。結果として、我々の会話の多くが歌の中に反映されました。」 ジョージ・ポーターJr.は、プロジェクトに参加した全てのメンバーと面識があり、その何人かとは彼とヴィダコヴィッチのトリオのギグでプレイした経験もあった。幸いにも、その彼が音楽ディレクターを引き受け、セッションの進行と編曲を統括する担当となったのだった。 「レコード制作過程で、ミュージシャンたちは団結して行きました」とポーターは言った。「スタジオでは皆協力的でした。全ての曲で9人のバンドリーダー達を同じページに収めるべく、誰かが音頭を取る必要がありました。僕が2曲で曲作りをし、タブとシリルが"Bayou Breeze"などの詞を書きました。曲と曲の合間に、僕がベースラインを弾いていると、シリルがやって来て『それをもとに何かやろうよ』と言い、タブとシリルが歌詞を書いて、その場でレコーディングをしました。僕がヴォーカル・マイクでコード・チェンジを皆に指示して、メンバーがそれについて来ました。モンクの歌など、アルバムを通してそんな感じで進んで行ったんです。僕がコード・チェンジを指示して、『OKドクター、じゃあそこでソロを弾いて』ってね。そんな様子で進行したんです。9人全員を一度にスタジオでレコーディングしたんです。タブとドラムスだけは、別の部屋に隔離してレコーディングが行われました。」 残念なことに、VOWのレコードはカトリーナ以前にレコーディングされたにも関わらず、その後までリリースされなかった。やっとライコディスクがリリースしたときには、それはちょっとした付け足しのように見なされたしまったのだった。ルイジアナの音楽を見事に総括し、強力なメッセージが込められた内容だったにも関わらず、カトリーナによってそのインパクトは弱められてしまった。 「僕らスタジオ入りしたメンバーが話していたことは、作品で全て実現しました」とポーターは言う。「ただ残念なことに、カトリーナの後に出たことで、数多いハリケーン関連のレコードの一つでしかないような印象を与えてしまったのです。そのせいで、本来聴かれるべき人に聴かれなかったのではないかと思っています。僕は、このレコードは一般的なレコード消費者を対象としたものだとは、実は思っていないのです。本当に聴いてもらうべき相手は権力の中にいる人、つまり何かを変えることができる人だと思うのです。」 ポーターは、レコード制作の時点では実は政治的な意図を持っていなかったことを認めている。それだけに、カトリーナ後に完成した作品を聴いたとき非常に感動したのだと言う。 「僕にとっては、当初これはただのレコーディング・セッションに過ぎませんでした。僕の関心は、どちらかというと音楽的にちゃんとしているかということにあったのです。レコーディング終了の時点では、そういう意味では目的は達成した、そう思っていました。僕が初めて完成した作品を聴いたのはカトリーナ後のことです。僕はI-10の道路を運転しながらこのレコードを聴きましたが、そのとき不覚にも涙が止まらなくなり、路肩に車を停めました。僕は感傷に浸って、路肩で45分間も赤子のように泣き続けたんです。」 VOWオールスターズは、強力なパフォーマンスを行うユニットとなり、来年(2009年)リリース予定のセカンド・アルバムもレコーディングした。ライヴのショー、特にVOWフェスティバルとジャズフェスは、彼らの最大の見せ場となっている。ドクター・ジョンは目的意識を更に推し進め、ジャズフェスのスポンサーのシェル石油に対し直接行動に出た。ドクター・ジョンのジャズフェスでのライヴの際に、会場のフェアグラウンズ競技場の上空にシェル石油が湿地帯の破壊に対する対策を取るように促す飛行機が旋回するというニュースが流れたとき、彼のマネジャーはフェスティバル主催者とシェルに対し、公式に謝罪する事態に追い込まれた。しかしドクター・ジョンが自ら発言した際、彼は引き下がることはなかった。「もし立ち上がるべきときに立ち上がらなければ、立つべき地を失うんです」彼はそう強調した。この場合は、その言葉は正に文字通りである。 「マックは子供ではないのだから、誰を怒らせてしまうかなどと気にする必要はないのです」とベノワは言う。「しかし、誰かが攻撃的にならざるを得ません。今起こっている事態考えるとき、そしてそれが現在も続いている事実からすれば、怒らずにいることは難しいのです。僕が思うに多くの怒りの矛先がシェルに向けられているのは、彼らがこの事態にしっかりと対策を取っていると主張しながら、いっこうにその成果が見えてこないことにあります。」 時間はもう限られている! 「僕は議会にも行きました」とベノワは言う。「議会では何も成果はありませんでした。議員達は皆同じことを繰り返しました。僕らは彼らに会い、常識的な話をし、問題をテーブルの上に乗せて帰って来たにすぎません。ルイジアナの海岸線の苦境を説明するにあたって都合がいいのは、その歴史が記録されていることです。このため、僕らはその内容を彼らに読み聞かせ、写真を見せることができました。1950年代には、現地の様子はこんな感じでした。そして50年後はこんな状況です。どうすればいいのでしょう、と。彼らは僕らを見つめて言うのです。『うーん、それは私たちが決断できることではありませんね。私たちにできることと言えば、その活動に予算を付けることくらいです。私たちができるのは、その予算案に一票を投じることだけです』とね。これは大統領の決断事項なのです。大統領が陸軍工兵隊の総指揮者なのですから。だから僕らができることと言えば人をたくさん集めて大きな声を挙げ、それが大統領の耳に届くように祈ることくらいしかないのが現状です。」 従って、2009年10月のVOWフェスティバルが終了した後、次のフェスティバルの開催地にホウマは予定されていない。開催地はワシントンD.C.になる予定だ。 ベノワは2009年9月、ピッツバーグで開催されるG20サミットへ招待を受けた。彼の支援者達は、彼がこの機会に大統領に直談判できるように願っている。しかしベノワ自身はそれには期待していない。それよりもワシントンD.C.でフェスティバルを開催することに意欲を燃やす。 「現時点からカトリーナ5周年記念日の間のどこかの地点で、僕らはワシントンに行き、フェスティバルを開催します。多くの人々とそこで会えることを期待しています」とベノワは言った。「僕らはホワイトハウスに向けて発言し、決断を迫るでしょう。これは大統領の決断でなければなりません。」 「彼らが問題を修正するチャンスは一度だけ。僕らも支援を要請するチャンスはあと一度だけだと考えています。それでも本当は遅いのです。多くの資金がルイジアナの海岸線に注ぎ込まれ、多くの資金が無駄になりました。次回、連邦政府がルイジアナの海岸線へ出費する際には、僕らの声が反映されていることを確認しなければなりません。地元住民の声が反映されていること、そして人々のみならずその場所の声、つまり影響を受けている土地の『声』も反映しなければならないと思います。僕はそれをしっかりと確認したい、そう思っています。VOW(湿地帯の声)というのはまさにそういうことなのです。僕らは実際の問題に対し、正しい解決策が示されているかを確認する責務を負っているのです。」 ベノワは、最後通告を突きつけています。「問題を解決するのかしないのか、それだけが聞きたい」と彼は言います。「これは二者択一の問題です。問題を解決するか、あるいは問題を放置して、その結果ニューオーリンズ港を、石油精製工場を、そして人々を他の場所に避難させる状況に追いやるのか。それが問われているのです。僕は自分の持つ全てを賭してこの問題と戦います。なぜなら、僕の故郷がかかっているからなのです。僕が撤退するのを見たら、皆さんも急いで逃げた方がいい。何故なら、僕が撤退する日は、本当に全てが終わった日ですから。」
◆ヴォイス・オヴ・ザ・ウェットランズ財団 (Voice of the Wetlands Foundation) http://www.voiceofthewetlands.org/ タブ・ベノワ (Tab Benoit) http://www.tabbenoit.com/ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |